遙の日記・独り言

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2005年12月その1


久しぶりに、タレントらしい仕事をした。
開店祝いに駆けつけるっちゅーやつ。
「遙洋子来店」とか書いてあるポスターを気恥ずかしく見た。
会場には男の子たちが、何人か最前列に陣取っていた。
「男の子のファンがいる」
なんだか、懐かしいような、ジーンと胸が熱くなった。
パンツスーツではなく、キャミソールドレスを着るべきだった。
バカバカと、悔やみながら帰った。
・・・・え?
・・・・・いらん?




2005年12月その2


雪で、車をあきらめ列車を3本乗り換えての関西の仕事だった。
吹きっさらしのホームで電車を待つ間の寒いこと。
トラウマになるほど寒さに懲りた。

そんな私はスキー場に行くような格好で東京に行った。
・・・東京は暖冬だった。
厚着の暑さにもんどりうつほど苦しんだ。

なんでいつもこうなんだろう。




2005年12月その3


新幹線に乗った。
雪のせいで止まってしまった。
止まった新幹線は静かだ。
横を売り子のワゴンが通るたびに、退屈だから止めた。
結局、動かない5時間で、私はコーヒー2杯と、弁当と、
するめと、ポテトフライと、チョコ食べた。
一回ずつバラバラに買った。
人は、なにもすることがないと、ただ、食べる。ひたすら食べる。
やがて売り子は、私の横を通る時、
ワゴンのスピードを落としてくれるようになった。

・・・友情も生まれる。




2005年12月その4


撮影前に、一流高級ホテルのトイレに入った。
ウォシュレットが壊れていた。
すごい勢いで水が飛び出し、どのボタンを押しても止まらない。
「いてて」と言いながら、必死で止める方法を考えた。
「止まる」のボタンはボロボロだった。
すでに多くの女性が、この体験をし、必死でこのボタンを押した証だ。

横にジャンプして便器から遠ざかることを思いついた。
ジャンプした瞬間、水は鉄砲のごとくトイレのドアにドドドと直撃した。
唖然とその光景を眺めた。
やがて「あら?誰もいないのね」
とばかりにぶっ壊れウォシュレットは引っ込んだ。

正月号の『プレジデント』。
素敵に映る私の写真の衣装。
背中は水でびちょびちょである。
ジャンプしたときの、水との戦いの跡である。

私らしい一年の締めくくり。





2005年11月その1


奄美大島に船で行く。
着いたのは夜だった。
「あの星が、オリオン座ですよ」と仲間の女性が教えてくれた。
びっくりして、胸が痛かった。
同じ女性なのに、
私はそういったロマンチックな感性を一切持ち合わせていない。
夜空を見上げて、誰かと、星を語り合ったことなど、人生で一度もない。
照れて、返事もできなかった。
船のエンジンの音だけが鳴った。




2005年11月その2


実家の母親のテレビがつぶれた。
そんなときだけ、実家から私に電話がある。
友達に、80キロ近い私のマンションにある大型テレビを
実家まで運んでもらった。
・・・・落とした。
人間には、運べる限界の重さっちゅーもんがある。
テレビは傷だらけになった。

実家でテレビを待つ兄が、テレビを見るなり言った。
「なんでこんなにボロボロやねん」
友達皆が、しゅんとなった。




2005年11月その3


舞台を見た。
こういうのを見るたびに、役者でいたかった自分との葛藤が始まる。
身体全体で表現したかったのに、といつも思う。
チョイ役の役者が登場するたびに、一緒に観劇するタレント友達に
「私、昔、あんなんやっててんで」と言う。
最近は、チョイ役が出てくるたびに、友達が
「洋子ちゃん、昔、あんなんやってんな」と先に言う。
人に先に言われると、「うん」と言いながらも鼻から息がブオーっと出る。
まだ言いたらない何かがある。




2005年11月その4


「朝まで生テレビ」に出た。そのまま大阪の朝の生バラエティに出た。
その後、講演やって、シンポジウムもやった。
一睡もせず、2日間喋り続けた。

よく、一人暮らしだから独り言が多くなっちゃって、とか言う人がいる。
そういう人は、外で喋っていないのではないだろうか。
私は、私の帰りを待つ、私を愛する夫もいらない。
「ただいま」も、言いたくない。





2005年10月その1



宝塚トークショーに出る。
タカラジェンヌと並ぶと、私は顔が大きくブタである。ふやけた餅である。
完成された人間というのはすごい。
あれほど過酷な肉体訓練でもって、あのスレンダーな身体が完成する。
私はまだまだ生ぬるい。
しめったセンベイである。たるんだゴムである。
あーあ。
お菓子食べて、寝よ。



2005年10月その2



鞍馬山に登った。貴船神社まで歩く。およそ2時間。
登って30メートルで後悔した。
きつい。
向こうからやってくる人は、皆、遭難者が帰還したみたいな形相だった。
「あとどれくらい?」
と、すれ違う人に聞く。
喋る力もなかった。

まったく同じ行程を、私よりも数十メートル後ろから歩く女性たちがいた。
振り返って見ると、ほぼ登山服の私に比べ、彼女たちはビジネススーツだ。おまけにヒール付きの革靴だ!
彼女たちはずっと2時間喋りながら歩いた。革靴でだ!
休憩所で追い抜かれた。
見ると息もあがってなかった。
そして喋りながら、休憩もせず私を追い抜いていった。革靴でだ!
奴ら、なんなんだ?

山に登ると変わった生き物に出会える。
私が鞍馬山で出会ったのは、喋り続けのタフネスウーマンだった。



2005年10月その3



信貴山に登った。
戦国コース、というハイキングコースだった。
薄暗い山道を、見上げると木々の間に蜘蛛の巣があり、
巨大な蜘蛛が色鮮やかにゆれている。
苔だらけの階段を上がると、無縁仏があった。
なにが森林浴だ。
ただ、不気味なだけの道のりじゃないか。

ちょうどいい、ころ加減な、幸せになれそうなハイキングってないのか?



2005年10月その4



高雄のハイキングコースに挑戦しようと思った。
高雄行きパークウェイの標識を見ながら、車を走らせた。
嵐山から高雄に向かうパークウェイの展望台から見える
京都の紅葉の美しさは有名だ。
ハイキングする前に、高いところから景色を見るんだ、と心を躍らせた。
「パークウェイはこちら」の標識を信じてどれくらい走っただろうか。
改札のおじさんに「高雄まで」と言うと、
「ここが高雄です」と教えられた。

パークウェイに乗ることなく、私は地道の山道を走り、
終点の高雄まで走ってしまったのだ。
紅葉を見ることもなく・・・。
秋のすがすがしい空の下、がっくりと、もう歩く気も失せてしゃがんで、
改札のおじさんを責めた。
「なんでここが高雄なのよっ」

人生はうまくいかないとは思っていた。
でも、私はハイキングひとつ、うまくいかない。



2005年9月その1



深夜ラジオ終わり、スタッフたちと築地の寿司屋に行った。
朝まで寿司が食べられるなんてすごい。
腹いっぱいに食べた後、近くの居酒屋に行った。
鳥料理を食べた。
味が違えば、腹いっぱいでも人間はまだ食べられるんだと感心した。
朝の4時になった。
もう一回築地に戻って、おにぎり屋で名物おにぎりと豚汁食べた。
皆、始発電車で帰っていった。
飲みすぎでボロボロになるのではなく、
食べすぎでも人はボロボロになるんだ、と皆の後ろ姿を見送った。



2005年9月その2



バレエの仲間たちと会った。
お互いレオタードと汗しか知らない関係。
服を着て会うと少し照れた。
お互いの身体や根性のことならよく知っているけど、
仕事とかなんも知らない。
「洋子ちゃん、最近レッスン来ないけどなにしてんの?」と素朴に聞く。
皆の中に“仕事”という概念がない。
これってむっちゃおもろい。



2005年9月その3



東京で『オペラ座の怪人』観た。
もう6回目。四季のも、ロンドンのも、NYのも観た。
映画も観た。DVDも持ってる。
・・・・『オペラ座の怪人』CDも。
・・・『オペラ座の怪人』CD海外版も。
車でも聞いてるし、家でも聞いてる。
劇団四季の雑誌から執筆依頼が来た!
・・・『アイーダ』について、だった。



2005年9月その4



切羽詰まって読書すると一日3冊でも読める。
最近は、のんびり日常生活に読書を取り組もうと努力している。
さりげなくだ。
ふと、本を手に取る感覚と言ったらいいだろうか。
リビングや、ベッドの棚に本を置いておくのだ。
そうやって、気ままに読む。
切羽詰まるのは、やめるのだ。
一週間やってみた。
・・・一冊も読めなかった。
やめ。



2005年8月その1


台風だ。
忙しいメンバーとスケジュール調整したせっかくの食事会だったのに、
次回に先送りになった。
台風上陸の当日。
大阪はただの曇り空だった。
なんやっちゅーねん。



2005年8月その2


四国で講演だ。
当日、台風直撃だ。
午後の飛行機か、先乗り込みする飛行機か。
ずっと迷った。
ほぼ徹夜状態で、朝いちの飛行機に乗った。
急きょ変更スケジュールのせいで、空港到着後も
電車とタクシーを二回ずつ乗った。
むっちゃきつい旅になった。
あとで問い合わせると、午後の飛行機も無事飛んでいた。
なんやっちゅーねん。迷惑台風。



2005年8月その3


東京への移動日に台風になった。
・・・部屋中のものを叩き割りたい気分。
台風をはずして前日移動になった。
台風通過当日、結局、大阪東京間はダイヤに1本の乱れもなかった。
神に誓う。
私は一生涯、天気予報は信じない。



2005年8月その4


京都の美術館をレンタル自転車でめぐった。
こんな、ベタな行程が、むちゃくちゃ新鮮で楽しかった。
“なにかやる”ことはオリジナルでなくてもいい。
”そんなことやってどーやねん”というものに、
実はけっこう喜びがあったりする。
大発見だ。
これからは、みんながやることをやってみようと思う。



2005年7月その1


毎日本を読んでいる。
スーツケースの中は、着替え用の衣装ではなく本になった。
多いときは20冊くらい持ち歩く。
すると、3日くらい同じ服でも平気になった。
「両立」という言葉は嫌いだ。
家事と仕事の両立も嫌いだし、お洒落と勉強の両立も無理。
私は、なにか一個しかできない。



2005年7月その2


「遙さん、なんで今日、ドレスなんですか?」と
ラジオのスタッフから言われた。
4日間の東京にいる間に、パーティが一個入っている。
ジーンズでラジオは行けても、パーティは無理。
そしたらもう4日間ともドレスでいいのだ。
ドレスでラジオ行き、ドレスで深夜、ラーメン屋に行く。
ドレスで喫茶店でモーニング食べ、ドレスで打ち合わせし、
そしてパーティに行くのだ。
もう、それでいいのだ。



2005年7月その3


歌舞伎を観にいった。
友達が「どうしても着物で行きたい」というので、夏用の着物を着込んだ。
「洋子ちゃんのも、絽(ろ)の着物?」
と友達が聞く。
「うん。20年前に買った絽の着物」と答えた。
家に帰って、素材表示のタグを見た。
・・・「ポリエステル100%」と書いてあった。



2005年7月その4


宝塚を観た。
帰りの駐車場で年配の女性に声をかけられた。
「私、30年目ぶりに宝塚観たわ。主婦は忙しいからな。
あんた、結婚なんかせんとき。気ままに生きたほうがええで」
私は日ごろ、「私を励ましてくれなくてけっこう」と強気な発言をしていた。
でも、その日の主婦の励ましは、肩の力が抜けて、嬉しかった。



2005年6月その1


私は子供が苦手だ。
子供を「かわいい」と愛おしみ、近づいていくタイプでは絶対ない。
エレベーターホールで、子供が
「エレベーターのボタンを押したい」と駄々をこねていた。
おばあちゃんらしき人が孫を抱きかかえ、ボタンを孫に押させようとしていた。
「はい、押しなさい」と言っていた。
世の中の人すべてが子供好きではない。
私は子供より先にボタンを押した。



2005年6月その2


新幹線に子供だ。
私は子供が苦手だ。
ずっと喋る子供。東京に着くまで喋る。
母親も「静かにしなさい」と、東京に着くまで喋り続ける。

以前、私の友達が新幹線に乗ったときのことだ。
孫を抱く女性が隣の席だったときに、その女性が「ぞうさん」を歌いだした。
それまでも孫と喋り続けだったことへの辛抱が切れて、
「ぞうさん歌うのはやめてくれます?」と友達がクレームをつけた。
するとその女性は「オタクのパソコンの音だってうるさいわよ」と大喧嘩になった。
その女性の夫は、暴れる妻を離れた席で黙って見ていたそうだ。

私は降りるとき、東京に着くまで喋り続けた母子を見た。
その隣には、東京に着くまで黙り続けた夫がいた。
よくある構図だ。そのなにもかもが、私は苦手だ。



2005年6月その3


NHKスペシャルに出た。
大勢の方からメールをいただいた。
全部見た。
嬉しかった。
大勢の方が観てくださったのだと思った。

バレエに行った。
「あら、久しぶり、一体なにしてたの?」とお友達全員が言った。
誰一人、観てなかった。

実家に帰った。
兄嫁が番組を観ていたらしい。
少子化がテーマだった。
兄嫁の感想は、「世の中、洋子ちゃんだらけになった」のだそうだ。
それまで「こんな娘は日本で一人だろうと不憫だった」のだそうだ。

私は番組でおそらく孤軍奮闘することを覚悟していた。
いままでだってそうだったから。
でも、参加された市民の皆さんは私なんかよりずっと雄弁だった。
世の中、変わった、と私も感じた。
ただ、変わったことを受け入れない人たちが大勢いるだけのことだ。



2005年6月その4


『朝まで生テレビ』元日本帝国軍人たちと激論、に出た。

戦争がテーマなので、衣装に迷った。
派手な色は避けたほうがいいだろうし、肌の露出も控えたほうがいいと思った。
白のジャケットにした。

当日、女性が3人並んで出演することになった。
・・・3人とも白いジャケットだった。
「なぜ?」と聞くと、皆「戦争だから」と答えた。
正確には、私以外の二人は純白のジャケットで、私はなんというか黄みがかったオフホワイト。
3人並び、モニター見たら私だけが古ぼけて見えた。
悲しかった。
戦争で議論する前に、私は服で泣きたくなった。

現在もまだ遺骨収集する元軍人がいた。
本番後、「なぜ?皆、遺骨など放っているのにあなただけ」と聞いてみた。
元軍人は「皆、元わたしの部下だから。わたしの命令で死んだから」と言った。
本番終わってから、本当に、涙が出た。



2005年5月その1


「母が遺言状を書いた」と兄嫁が私に嬉々と喋った。
「洋子ちゃんの名前だけなかった」と続けて言った。
だから、「洋子もあなたの子供ですよと母に教えてあげた」そうだ。
母親は、息子だけが大事らしいと、以前から気づいてはいた。
でも、子供の名前を書くときに、忘れられるほど、娘が消えていたとは・・・。
忘れられたことで「ええっ」という驚きより、「やっぱり」とうなだれた。



2005年5月その2


タレント同士で、にぎやかにロケに行った。
友達のモモコもいた。
温泉で盛り上がり、ロケバスでも盛り上がった。
ロケが終わり、後日モモコが私に言った。
「洋子ちゃんが帰った後、○○さんが、
洋子ちゃんはキツネが憑いているのか、と私に聞いてきたよ」
誰かが帰った後で出る質問とは、本気の質問だ。
「結婚してるの?」とか、
「何歳?」とか。
でも、私の場合は、
「キツネが憑いてるの?」だった。
「もう、憑いてるということにしといて・・・」と返事した。



2005年5月その3


東京はすごい。
むっちゃくちゃ美味い店があるもんだ。
大阪の比じゃない。
東京に行く度に通った。
店員が「一昨日は、こっちをお召し上がりでしたから・・・」と、
私が何を食べたかまで覚えてくれた。
私も「先日は、イカが2切れだったので、3切れほど入れて」とか込み入った注文になった。
グルメ雑誌では出会えない店だった。
やっぱり、自分の嗅覚と足で選んだ店はすごい。



2005年5月その4


東京はすごい。
朝まで美味い一品料理が食べられる店を見つけた。
日本料理屋なのに、どんなわがままでも聞いてくれる。
「コーヒー出して」と言っても聞いてくれる。
深夜にはありがたいことだ。
料金払ってびっくりした。
二人で軽い夜食でウン万円。
東京はすごい。
自分の足で店を見つけたら、地雷を踏んだ。



2005年4月その1


シングルキャリアウーマンばっかりで、
アットホームなホームパーティを私の家でやろうと思った。
私が仕事でぎりぎりの帰宅時間になるので、
料理だけは知人の主婦に頼むことにした。
汗だくになって、作ってくれた。
ハムの炒め物と、ウインナーのサラダと、
ベーコンの煮物と、ソーセージのスープだった・・・。
なんていうか、なぜ、魚とか、肉とか、ないのだろうと不思議だった。
おいしかったけど、なんというか、もうちょっと、こう・・・・。



2005年4月その2


超、お気に入りの店を見つけた。
衝撃の美味さだった。
割烹料理の頑固な料理人が、独立して小さな店を持ち、
その客席分だけ腕を振るうっていう、アレ。
さっそく、店を借り切って、日ごろお世話になっている
知り合いの主婦の人たちをドサッとご招待させていただいた。
突然の大人数なので、料理人一人で大丈夫かな?と多少不安ではあった。
でも私がウマイとあまり騒ぐもんだから、皆、ウキウキしていた。
日ごろ、ジャージの女性が、ワンピース着て来た。
少し、照れた。
料理が始まった。
前菜からアレと思った。
メインは、アレレ?と思った。
究極は、レタスにジャコをまぶしてドレッシングかけた皿だった。
「これ、家でも作れるやん・・・」という声がどこかのテーブルから聞こえた。

料理は人を幸福にもするかわりに、脱力系不幸にも突き落とす。
ジャコレタスが出たときの、主婦たちの脱力を、
店の人はどれほど感じ取っただろう・・・。



2005年4月その3


このHPのメールで、私宛に、深刻なものや、
切実なご相談をいただくことがよくある。
質問コーナーではないのでページに載せることはないが、
個々のご返事も時間がままならない状態だ。 でも、ずっと、気になってもいる。
みなさん、どうしていらっしゃるだろうか。

「ヘコんでいたけど、ページ見て元気が出た」と言ってくださる方もいる。
・・・なにをおっしゃる。
きっと、皆さんに負けないくらい、私もヘコむ日々だ。
ここに書けないヘコむ現実に格闘し、
皆さんからいただくメールで勇気をいただいているのは、きっと私のほうだ。
あなただけじゃない、と、少しでも届けばと、日記を書いている。



2005年4月その4


最近、時事問題トークが多い。
せっかくだから、少し、勉強してみた。
すると、あらら、不思議。
今までと、まったく違った世界が見えてくる。
知的文化人たるメンバーの、誰がとんでも文化人かも、見えてくる。
なぜ、勉強が必要かというと、誰が本物で、誰が嘘っぱちか見破るためだ。
誰にも騙されないためだ。
でも勉強するには、とてつもない時間がいる。
その時間が取れない女性も多い。
となると、勘どころに頼るしかない。

昔から私を応援してくださる老齢の男性と食事した。
戦争体験者の彼は言った。
「戦争は終わったというけれど、今の社会を生き抜くのは、まさしく戦争だ。
今でも戦争ですよ。皆が気づいてないだけで・・・」
だから、食事会は大切だ。



2005年3月その1


風邪ひいた。
3日寝たのに治らない。こんなときだけ会社休める職業がうらやましい。
熱出しながら沖縄ロケだ。
きっと暖かい。きっと治る。



2005年3月その2


・・・寒波の沖縄だった。
撮影をバスの中で待つ間も震えた。
運転手さんに「ドア閉めて」と言うと、ドアを運転手さんが、蹴った。
バスのドアが、はずれた・・・。

それからずっと、スタッフがドアを手で持ちながらの運転になった。
横なぐりの冷たい風がドアの隙間からバスの中を吹き荒れた。
スタッフは突風に歯を食いしばっていた。
まるで八甲田山だった・・・。



2005年3月その3


結局一ヶ月近く風邪ということになる。
インフルエンザの検査キットは、だめだ。
ながーい綿棒のようなものを、鼻の穴の奥の奥まで突っ込むのだ。
そして、奥の液状鼻くそを取る。
・・・まったく、私の美学に合わないから、検査を拒否した。

風邪にならない身体がほしい。
ダイエット食がなんだ。
これからは、肉と、フルーツ、一杯食べてやる。



2005年3月その4


相撲を観にいった。
朝青龍にホレた。
性格が問題があることがなんだ。
勝って土俵を後にするときの、目の前で見た、高揚して鼻息の荒い戦う男を見て、
ホレないほうがおかしい。
キャーって言って拍手したら、飛んできた座布団が私の顔面に直撃した。
倒れる寸前、前を歩く朝青龍越しにテレビカメラのレンズがあった。

ときどき、みじめで死にたいときってある。
それは、こんなときだ。



2005年3月その5


4月から新番組が三つも始まる。
東京エリアの方々にも楽しんでもらえるラジオとテレビだ。
がんばります。



2005年2月その1


東京にてゲスト出演だ。
たまたま大阪でお葬式に出てから、喪服のまま新幹線に乗った。
東京に着き、衣装を開けると、
どういうわけかスタジオのセットに合わなかった。
仕方なく、喪服のまま出演した。
・・・お通夜みたいな暗いトークになった。
喪服で収録し、喪服で取材も受け、喪服で写真撮影もした。
ずっと悲しかった。


2005年2月その2


とても素敵なメンバーとの食事会。
一人がけの巨大な椅子に、4メートルはあろうかという巨大なテーブル。
そしてけたたましいライブミュージック。
・・・・いつどうやって、喋るのだ?
4畳半で80センチほどの机を8人で囲んで喋るのが好きだ。
人と仲良くなろうと思ったら、簡単だ。
極端に狭い空間で過ごせばいい。
否応なしに、距離は縮まる。


2005年2月その3


ディスコのお立ち台で踊った。
最近はクラブではなく、ディスコなんだそうだ。
大学生以来だった。
悔しかった。
どうせお立ち台に登るなら、
アメリカの売春婦みたいな格好をすればよかった。
そしたら、もっと盛り上がったのに。
今日の私はトラッドだった。ダッセー。


2005年2月その4


風邪ひいた。
きっとディスコでうつされた。
今日はロケで2本撮り。その後二時間のシンポジウム。
翌日ラジオ3本撮りに、原稿の締め切り2つ。
風邪薬も咳止めも大量にグビグビ飲んだ。

服が突然燃えた。
煙が出たので必死で消そうとした。
店の人が「どうかなさいましたか?」
と心配そうに私に聞いた。
見ると煙は跡形もなく消えていた。

「それは幻覚です。薬の飲みすぎ」と医師に言われた。
すっげー。
幻覚見た。
生まれて初めてだ。
すっげー。すっげー。


2005年1月その1


「スタジオーパークからこんにちわ」に出演が決まった。
一杯宣伝した。兄嫁は実家にも電話していた。
・・・・出演日が変更になった。
私も兄嫁もあっちこっちに一杯謝った。



2005年1月その2


「スタジオパーク」の出演日が再決定した。
謝った人たちにまた連絡した。
兄嫁はまた実家に電話した。
・・・・国会中継でまた出演日が延期になった。
また一杯謝った。


2005年1月その3


「スタジオーパーク」を撮った。
・・・・もう誰にも連絡するのはやめた。
兄嫁も静かだ。


2005年1月その4


カニ食べに行った。
城之崎の電車の車掌と喧嘩した。
旅館に行った。
仲居と喧嘩した。
腹立ったので、大阪に帰り、映画を観ることにした。
チケット売り場の係員と喧嘩した。
もう家を出たくない。